■漢詩について
我国で「漢詩」といえば、中国の古典語つまり我国でいう“漢語”を用いて作った詩全般を意味します。

そもそも言語芸術の最初の形が“うた”であることは、人類普遍の現象であり、この“うた”が文字に書きとめられたとき、“詩”となります。中国の詩は、紀元前十一世紀、周王朝の時代に始まり、「詩経」は今に残る最古の作品とされています。以後、三千年の間に、詩の形式も幾多の変遷を経てきました。

狭義の“詩”の形式は、唐時代に確定されました。これを“近体詩”と呼び、それ以前から行われていた形式を“古体詩”と呼びます。唐以降は、古体も近体と並んで作られました。我々が詩吟で学ぶ漢詩の形式は次の表の如くであります。

種類
句の数
一句の字数
名称
古体詩
四言古詩
四字
不定
五言古詩
五字
不定
七言古詩
七字
不定
近体詩
五言絶句 五字 四句
七言絶句
七字
四句
五言律詩 五字 八句
七言律詩
七字
八句
五言排律 五字 十句以上の偶数


我国が中国へ文化使節を送ったのは、飛鳥時代です。607年には遣隋使を、630年には遣唐使を派遣して、中国との文化交流を図りました。この文化交流の中で李白、杜甫、白楽天等が作った名詩が紹介され、これを基に日本でも漢詩を作る様になりました。

日本人で最初に漢詩を作ったのは、670年頃、大友皇子(後の第39代弘文天皇)と言われています。又、弟にあたる河島皇子も作詞に優れていたと云われ、これらの詩は751年ごろ、淡海三船が編集した我国最古の漢詩集「懐風藻」に収録されています。

この様にして、中国の漢詩、日本人の作った漢詩は確実に我国に定着しました。詩の朗詠は和歌が中心でありましたが、段々と漢詩の朗詠も盛んになりました。江戸時代、特に文化文政期に入って、現代吟詠に近い節調で漢詩が朗詠されるようになりました。

江戸時代、各藩は藩内子弟の教育を目的として藩校を開きました。水戸の弘道館、萩の明倫館、肥後の時習館、等々。一方、私塾も盛んでした。中江藤樹の藤樹書院、管茶山の廉塾、広瀬淡窓の桂林荘、等々。中でも詩吟は、広瀬淡窓の桂林荘が最も盛んでした。

広瀬淡窓は文化4年(1807)豊後の国、日田に桂林荘を開塾、全国から延べ4600人余の塾生が集まりました。そこで情操陶冶と志気の高揚を目的として淡窓は本格的に詩吟を教えました。ここで学んだ塾生達は故国に帰り、指導者となり、又そこで淡窓直伝の詩吟を教えました。こうして、現在の詩吟はここから全国に広まっていったのです。





題名をクリックすると漢詩と解説を観賞できます。
アイコンの有る詩は吟が聞けます。

※聞き方:下の試聴アイコンをクリックするとプレーヤー画像が現れます。音声が聞こえたら画像以外の余白部をクリックして下さい。最初のタイトル表に戻ります。そのアイコンの「題名」をクリックすると詩が現れ、詩を見ながら聴けます。

試聴
区分
題名 作者
五言絶句 辞世  New 吉田松陰
  七言絶句 江楼にて感を書す 趙●
※ ●は暇の日部分が古
  七言絶句 母を奉じて嵐山に遊ぶ 頼山陽
  七言絶句 春夜 蘇軾
  七言絶句 小谷城懐古 榛葉竹庭
  七言絶句 弘道館に梅花を賞す 徳川景山
  七言絶句 中庸 元田東野
  歌謡吟 あヽ大西郷 後藤旦早
  七言絶句 酒に対す 白居易
  七言絶句 元二の安西に使するを送る 王維
  五言絶句 易水送別 駱賓王
  構成吟 西南戦争と西郷隆盛 後藤旦早
  七言絶句 夜墨水を下る 服部南郭
  七言絶句 富士山 石川丈山
七言絶句 不識庵機山を撃つの図に題す  頼山陽
  五言律詩 春望 杜甫
七言絶句 新涼書を読む 菊池三渓


後藤 旦早